1952年2月2日の夜、時のソ連領ウラル山脈北部で雪山登山をしていた男女9人が不可解な死を遂げたことで知られる事件。
事件は人里から隔絶した山奥で発生し生還者も存在しないため、いまだに全容が解明されず、不明な点が多く残されていることで知られているディアトロフ峠事件。
今もなお、研究者が新たな仮説を提唱しています。
1887年に新潟南魚沼群(現在の南魚沼市)の猟師が遺体発見された現在も解明されていない、「日本版ディアトロフ峠事件」とでもいうべき事件が起こっています。
今回は、
についてお伝えします。
日本版ディアトロフ峠事件の概要
日本版ディアトロフ峠事件はこちら。
日本版ディアトロフ峠事件が起こったのはいつ?
日本版ディアトロフ峠事件が起こったのは1887年(明治20年)4月です。
残雪期の春グマ狩りを目的に猟師が4月1日に入山したと考えれらています。
クマ狩りにはいる山は4月といっても険しい豪雪地帯です。
日本版ディアトロフ峠事件の現場はどこ?
日本版ディアトロフ峠事件の現場は群馬県利根郡です。
新潟県南魚沼郡(現在の南魚沼市)清水の猟師がクマ猟のために険しい峠をこえて「寶川」(宝川)付近の山に入ったとされています。
5人の猟師は新潟県から群馬県利根郡まで越境していたそうです。
「寶川」(宝川)とは利根川の源流部です。
なにが起こった?
新潟県魚沼群の猟師5人はクマ狩りのために山に入りますが、10日経っても戻りませんでした。
時間が経つにつれ、心配になり捜索隊が出されます。
捜索隊は5人の遺体を発見しますした。
仮小屋の中、その周辺で亡くなっていました。
遺体は全て外傷がなかったが、全員手の色だけが紫色に変色していた。
持参した米が半分くらい残っていた。
外傷がないことから熊などに襲われたわけでないこと、食べ物が残っていたため餓死でもないことがわかります。
しかし死因がわからないまま調べる方法もなく遺族に引き取られ事件は終っています。
日本版ディアトロフ峠事件についての考察
日本版ディアトロフ峠事件では猟師5人が不可思議な死を遂げており、死因は解明されていません。
NPO法人日本ツキノワグマ研究所理事長・米田 一彦さんが以前の文春オンラインでの考察は以下の通りでした。
死因は低体温症による凍死
事件発生は4月にはいってからですが、クマ狩りが行われる山中の気温は―10℃以下であったことが考えられます。
仮小屋に帰着後、濡れた衣類の温度が低下していることに気づかず低体温症に陥った可能性があります。
5人中4人の猟師は小屋の外で上半身裸の状態でみつかっています。
体温低下に伴う意識障害で「暑い」と感じることは凍死者によく見られる現象だそうです。
また、「全員手の色だけが変色していた」点については日焼けによる可能性もあるとのこと。
(ディアトロフ峠事件では何人かの裸の遺体が〈濃い茶褐色〉になっており、これは遺体が「日焼け」したことによって起りうる現象とされているそうです。)
内容参照:文春オンライン
状況から判断するに食中毒や雪雪崩などの可能性は少ないようです。
まとめ
今回は、日本版ディアトロフ峠事件ともいうべく新潟魚沼群の猟師が消えた事件について調べてみました。
135年も前の事件とはいえ不可解な出来事です。
なにが起こったのかはわかっていませんが、自然現象の恐ろしさを改めて感じますね。
本日も最後までお読みいただきありがとうございました。