1982年(昭和57年)2月9日に起こった航空事故「羽田沖墜落事故」で救助にあたった高橋康之医師についてです。
「羽田沖墜落事故」は日本航空のダグラス DC-8-61型機が羽田空港沖に墜落し、乗員乗客174人中24人が死亡し、149人が負傷した事故です。
事故現場に近い東京都大田区大森で開院していた高橋康之医師は要請により現場にかけつけました。
事故により浅瀬に墜落した機体は二つに折れ、11列目より前の乗客の多くが犠牲にあいました。
最後の生存者となった12列目の乗客を助けるために高橋康之医師は機内にはいり、墜落の3時間後に無事に救い出され一命を取り留めました。
羽田沖墜落事故の機長や副操縦士のその後についての記事はこちら
今回は、
についてお伝えします。
高橋康之医師のその後は?
高橋康之医師は羽田沖墜落事故で要請に応じ、現場にかけつけ救助にあたりました。
その後、救助活動において「相互の連絡調整」「連絡と連携」の大切さを改めて感じ、また課題ともとらえた高橋康之医師はドクター・ボート・センターを設立します。
ドクター・ボート・センターとは高橋康之医師が設立したボランティア団体です。
医師や看護師、船長、甲板員などで構成されていました。
呑川の本部ほか5支部があり、70人の会員と、20隻の登録船舶を擁し、羽田空港から「9km圏内の海上において航空機事故が発生した場合に、東京国際空港長の出動要請を受けて医療救護活動を行う」ということでした。
2023年現在はホームページが削除されており、活動内容についても確認がとれませんでした。
高橋康之医師の病院は現在も羽田空港近くにあるようですが、公式HPではWEB上で病院の詳細を知られることを望まれていないようでしたので、ここでの病院の詳細については記載をしません。
羽田沖墜落事故のその後も地域に密着した医療活動をされていることと思います。
高橋康之医師は父親も医師で飛行機事故に遭遇していた
高橋康之医師は父親の代から羽田空港近くで開院をしており、お父様も高橋康之医師同様羽田沖墜落事故に遭遇していました。
1966年の羽田沖の墜落事故とのことですので、1966年2月4日に起こった「全日空羽田沖墜落事故」のことだと思われます。
乗客乗員133人全員が死亡し、1966年当時においての一機単独事故としては世界最大の墜落事故でした。
高橋康之医師のお父様も救助に駆け付けましたが、近寄ることすらできない状況だったそうです。
高橋康之医師は医師として誰一人救えなかったと自問自答しながら苦しむ父親をみてきました。
その後、医師となり、病院の近くにある羽田空港で事故があっても直ぐに対応ができるよう、時間を見つけて航空関係の専門書を読み漁り不測の事態にそなえてました。
航空墜落事故がいつ起こるかもわからない状況に備えられていた結果、高橋康之医師は現場において尊い命を救うことができたのですね。
まとめ
1982年に起こった羽田沖墜落事故で救助にかけつけた高橋康之医師についてお伝えしました。
分かったことは…
- 高橋康之医師はその後ドクター・ボート・センターを設立(2023年現在、活動は確認できず)
- 高橋康之医師は父親も医師で1966年の羽田沖墜落事故の遭遇していた
本日も最後までお読みいただきありがとうございました。
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